人気ブログランキング | 話題のタグを見る

8th Round

シャザム!

ヒーローとしての力と、人とが一致せず、強大な力を持った、子供のヒーローが居たなら、世界はどう変わるか、というストーリー。ここから見える事は、才能とは人格を問わない、という事である。少年ではあれど、特殊な力には、正統性が宿り、世界の指導者たり得る、という事であり、また、人の才能や気質というのは、善良なビリーに備わっているように、生来の資質にある、という事ではないか。だから、キャリアや生活の厳しさの中で、個が磨かれる事があっても、良いものは成長しても、本質的に善良であり続ける、という事であり、逆もまた然り、という事である。

それは、ダークサイドに墜ちたサデウスに見られるように、賢者から力を受けるだけの才能がありながら、その生来の悪によって、選ばれし者になれなかった事にある。むしろ、サデウスなどは、ビリーの逆であり、苛酷な人生を送ったのだろう。成長を遂げて、大人になりながらも、人と並び立ち、調和するのではなく、力の支配による野心を曲げなかった。悪の量を計る指針として、家族との関係があると思う。家族を犠牲にする事によって、サデウスは、己の力だけしか信じない、人生に他者の居ない歪んだ世界観を持つに至った。家族とは、国家の単位であり、それを擁護せず、破壊出来る事は、社会にとっても有害だという事ではないか。

反抗期の少年というのは、父親に対して、オイディプス・コンプレックスを持ち、その大きな存在を超える事が、反抗期に共通した行動ではあるが、サデウスの場合は、壮年期に差し掛かってからの長い反抗期であり、そうした、本能というのを、長年に渡って抑え続けて来たわけだろう。だから、その感情の健全さというのは、感情が昂った時、少年期にこそ、まき散らされるべきであり、それに耐える事は苦行であろうが、せっかく我慢して来たのに、今になって、父親や兄弟への加害行動に及ぶ、というのは、暴力と感情とが切り離された非人格的であり、並の悪人ではない、と思う。

ビリーにとって、個の器量を超えた絶大な力というものは、リアルとの距離があるゆえ、現実味が無い。その力を、世の為人の為に尽くす事は、善良なビリーの資質ゆえであろう。フレディとのユーチューバ―としての、商業的な行動然り、彼らは古くないし、新たなヒーローだと言える。対する、サデウスは、一族の会社の経営陣に対する叛乱であり、資本主義への協調というのは、戦争無き平和で、誇り高い時代の旗手たる、必須となる思想である、と思う。つまり、サデウスというのは、父親の半身不随の元凶となり、迷惑をかけた事に対する自責も無いし、プライベートのみならず、父親のパブリックまでをも否定して、破壊し尽くす、という事であり、彼は、二重に加害に及んでいるのであり、凶悪としか言いようが無い。

むしろ、テロとは、対話や和解の可能性を根絶する事によって、世界への宣戦布告をするようなものだ。純粋な暴力を貫く事、それは、妥協も無く、行き付く処まで行く他に無いのだろう。若く成長期に入ったばかりのビリーに対して、老熟して脂の乗ったサデウスという、双方の力の対決には、継承者としての正統、という優位な点もあるが、その殺人、破壊術において、戦争屋サデウスに及ぶ者は無く、それに苦戦する。力を更に充実させるには、人格的にビリー、つまり、シャザムが、内面的に成長する事にあるが、そのヒーローとして、自他共に認める正統な勇者になるには、時間が必要である。

その成長劇があるかと思いきや、ビリーの陣営において、とある奇跡的な戦術によって、物量でサデウスを凌駕する、という展開になる。それは安易な手法でもあり、無類の人間群像を期待していたので、少々、肩透かしを喰らった、ような、感想が残っている。

by lower_highlander | 2019-05-03 12:42 | 映画
<< アベンジャーズ/エンドゲーム バンブルビー >>