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8th Round

運び屋

麻薬密売という、犯罪を取り扱いながら、アールという老人を中心として、ドラマが織り成される。麻薬はギャングの資金源であり、その界隈には、危険な男たちが徘徊している。金欲しさの為に、その世界に踏み込んだアールは、末端の運び屋とはいえ、稼ぎの多さに驚くも、彼は、社交的な性格の為に、そのほとんどを、自分の交際費や家族の為に使ってしまい、また、金が欲しくなる、という悪循環にある。アールにとって、汚い金である事を忘れさせるには、社交界は打ってつけのマネーロンダリングの場所であった。なぜなら、彼は、それを友人たちに景気良く振舞うからであり、人間関係の上でも、ギャングに対する、一般の社交界は対抗軸となっている。

アールは、軍隊において鍛えられた思想や人生観を持っており、それは、組織原理であり、軍人とは必ずしも、無軌道な暴力や破壊を望む人々ではなく、むしろ、現代の軍隊とは、法治に従っているから、それを蹂躙する悪徳は、汚染源として存在しない。麻薬組織の末端で、仕事をしながら、若輩の若者たちに、解散しろと直言出来る。それは、勇気の要る事であるが、それでも麻薬組織で働くアールには、組織としての悪徳に対して、個々の若者たちには希望を感じているのではないか。つまり、生きる為に、死に近い危険な仕事をしている事に対して、抗争による彼らの無辜の死に、戦場に近いものを感じ、一方的に共感を感じているのではないか。

つまり、従軍経験というのが、アールに強い影響を与え、そのバッグボーンを形成している、という事で、不法な仕事をしている事に対して、アールは、いつ捕まってもいい、と考えている、という事である。これは、アールの人格が、善であり、その行動における、悪というのは、積み重なる事によって、その罪深さを増して行く。つまり、ある人に、大きな善行や功績がある事によって、罪の意識は軽減される。だが、それは、個人の傲岸な自信によるものなのだ。つまり、人の人らしき気質というものは、必ずしも、社会生活の指針である法治と合致しない。アールは、国家に尽くしたという意識と自負があるから、末端での運び屋の仕事を大変な悪い事だとは思っていない。その自負が、打ち砕かれ、反省するには、法による逮捕や懲罰によってのみ、為さるものであり、犯罪とは、法廷による裁断と社会的更生を前提としているものなのだ。法とは、個人や社会の趨勢を変えて、矯正させて行くものなのだ。

そして、漢というか、男性的な人物ほど、自分の家族に対して、強い愛情を持っている。これは、ギャングやマフィアの血のファミリーも同じであり、オールドタイプほど、身近な絆や、利権共同体に対する愛情や、或いは、強い支配欲を持っている。これに対して、家族を超えて、地域において保護と監察の機能を成そうという方が、新しい考え方だと言えるだろう。アールは、家族とは遠距離にあるから、社会に向かって胸襟を開いており、それゆえに、友人たちとの社交サークルに、金を湯水の如く注ぎ込み、大盤振る舞いをする。だが、それが、老いた妻の危篤に対する面会によって、その心の軸が、家族に振れるのである。

それは、アールが、快楽による社会性を超えて、変わらざる本能に還った、という事であり、運び屋の危険な仕事を途中で放棄してまで、帰郷したというのは、ファミリーの鉄則違反であり、代償が高くつく、大変危険な行動である。だが、元々、アールは暴力に心酔するギャングに直言をしたり、全く違う人種として接しているから、ファミリーに忠誠心は無く、暴力の恫喝よりも、本当の家族に振れたという事は、彼が一市民である事の裏返しに過ぎない。犯罪に関与する事によっても、アールは変わらないし、それまでの多くの経験が、彼の自我を支える理念になっていると言える。物質主義に対して、男性の聖域、というのは、信じるものや、経験、記憶からもたらされるものだが、無形の聖域よりも、もっと確かなものは、過去から連なる、今の絆や家族といったものであり、個の存在というのは、肉体という物質を超えて、多大な期待度を秘めているように思えてならない。

by lower_highlander | 2019-03-27 14:47 | 映画
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