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8th Round

ジョジョ・ラビット

ナチスに憧れるドイツ人少年ジョジョは、空想上の友達として、アドルフ・ヒトラーを尊敬しており、大人達が向かっていく戦争を待望していた。10歳であり、まだ幼いジョジョには従軍というのは、まだ遠い世界の出来事であった。そんなジョジョが、家の屋根裏に、ユダヤ人少女エルサが隠れ住んでいる事を知る。彼女に愛を抱いた事から、ジョジョは、次第に変化して行く。

大戦は、ナチスの猛威に晒され、多くの国が占領される憂き目に遭ったが、ジョジョの戦争というのは、敢えて日常の和を崩し、空想の中で独裁者から学ぶ事であった。彼が、従軍経験を希望する事は、ナチスが劣勢となり、少年兵にも頼らざるを得なくなる末期と言う事であって、その意味で、少年兵の参戦というのは、長期的に見た敗北が見えている、絶望的な状況であり、その末期での参戦とは、戦死する可能性が非常に高いという事である。つまり、ジョジョは、戦争で死ぬことを恐れているのではなく、拠り所とする思想を失う方が恐いという事である。

なぜなら、ナチズムの思想とは、何も出来ないジョジョがヒトラーへの忠誠に置き換えて、それに自分の価値を唯一認められた空想世界であるからである。ヒトラーもまた、空想とは言え、登壇して過激な演説をぶつような有名なキャラクターを貫いており、ジョジョの空想上の産物だけだとは言い切れないリアリズムと共にある。ヒトラーが自己保存をするならば、こうした、忠誠心だけは強いカルト的な、虚弱な人物や少年の中に、自身の最も強い姿、つまりは、喜怒哀楽の激しい個人ではなく、超然として神懸った独裁者としての輝ける時のものではないか。

そして、ユダヤ人少女エルサとの出逢いが、彼を変えて行く事になるが、これは、エルサが弱いという事ではなく、むしろ、我を保ち、健やかに生き抜こうとするエルサの方が、ジョジョよりも「生きている」という事だと思う。それは、シオニズムという事ではなく、ましてや反ナチズムという政治的思想ではなく、個として生来備わっている生き抜こうとする防衛本能だという事が出来よう。つまり、ナチズム・ドイツ人とユダヤ人という事で、全く正反対の二人には、血と民族の問題だけでなく、個の思想の持ちようも全く異なるという事だ。

ジョジョは、ナチズムという生来の自分には無かった強者の軍国思想に染まり、それは、その過激思想を論じたり、宣誓している時には、弱い自分を忘れられるのである。対する、エルサは、政治思想ではなく、生来の自分に備わった防衛本能であり、それこそが、裸の人間らしい堂々たる考え方である、という事になる。

だから、ナチズムとは借り物の思想である限り、忠誠によって思考停止に陥ったり、考える事を要さない駒としての兵隊を育てる事にはなれど、思想の本質を本当に理解した、ロジックの強者や賢者を生む事には繋がらない。ヒトラーは無能では無いが、その最大限の能力というのは、過激思想による国民の感化にあり、強固な忠誠心を持たせる事にあったと言える。ヒトラーは一個の人として、外交にも及ぼすような絶大な影響力があり、また、欧州の覇者となった。だが、その独裁者が、ジョジョという弱い少年にこそ、ナチズムを通した教化であったり、弱い本心を吐露する事が出来たと考えらる事。それも全てが空想ではあるが、ヒトラーにもそんな弱い一面があった、人格的には弱いエゴイストであった、という事には、説得力がある。誰もが、ヒトラーのような恐るべき人物には、何かしらの欠陥があったと考えたいものだろう。

戦争に美学を求めるならば、それが愛国や武装した戦闘員によって具現されるべきゲームであるべきであり、愛国無き戦争というのは、為すべきではない。それは、侵略が平和に叛く犯罪として糾弾されるべき現代的価値観であり、本作は、もっと過去におけるナチスの栄光に浴する、本質的なディストピアに気付かざる、愚かな戦争の時代であったのである。

# by lower_highlander | 2020-03-08 19:04 | 映画

アナと雪の女王2

アレンデール国は、平和で安定しており、女王エルサは魔法を使いながら、領民を労わり、平和な生活を送っていた。だが、領内には謎の魔法や呪いの懸かった場所があり、永遠に晴れない霧の懸かる森には、エルサの祖父であり名君とされたルナード王によって、森の湖にダムが作られていた。魔法の眷属、王家や雪だるまのオラフ、クリストフといった愉快な仲間達は健在である。それらの絆と愛によって、常と変わらない切れない家族たる王家は、日々を平安に過ごして行く。

平和で安定した盤石の国が、忌まわしき戦争や不義によって建国されていたとすればどうか。それは、忌むべき真相として、闇に葬られるに違いない。名君とされるルナード王は、好戦的であり、魔法といった神秘を軽視しており、それは、権力から捉え切れない異界の法であったり、マイノリティとしての生き方を理解し得ない、と言う事である。王とは、歴史によってその名や功績が語り継がれ、つまりは、歴史的に不死である。同時に、歴史という法廷において、その功罪を後世から裁かれる事もある。いつに為っても、為政者とは批判されたり、評価されるものだ。具体的には、ルナード王は敵対勢力の首長への不意打ちを自らの手で為しており、それは、立派な王族としての振舞いではない。

それは、祖母や家族の愛を記憶の深底に保存しており、それを、王族としての葛藤の中、試練において思い出したエルサは、愛のあった人生の連環を知ると同時に、祖父ルナード王の不意打ちの罪をすら、不可思議な過去の風景の再生の中で、目撃してしまう。それによって、祖父の罪を悟るのであるが、それは、歴史的には偉大な王で通っている祖父の名誉を、孫が自ら毀損する行為でもある。そこで問われる愛とは、どんなに悪くても、親類を擁護するのが凡庸な人情であるが、エルサはアナにその真実を知らせる事によって、その償いを図るのである。

実は、その祖父ルナード王の建設したダムによって、森は廃れて呪われた土地と為り、深い霧が晴れないのである。これに対する重大な判断を、この姉妹はするのだが、同時に、祖父の不名誉も隠せないと言う事は、彼女らが、王族として誇り高く、また、領内の統治や環境の保全に対して、強い決意を持っているという事である。最早、真相を知る身として、王としては祖父を尊敬出来ないという厳しい現実である。そして、その根源にある矛盾にして、また、それらを再び結び付ける要素というのは、魔法による奇跡の力によるものと断言して良い。


つまり、これは、ダム建設という大事業に対して、その実行者であった祖父ルナード王が進めようとした近代化や科学的知見、合理主義に対する、魔法という中世の不思議な力による反動だという事が出来よう。つまり、この世界観というのは、魔法という奇跡にして、古の力を肯定して、それを平和利用すれば、異界の法としてではなく、世界を煌めき照らす光と為り得ると言う事ではないか。つまり、中世へのノスタルジーであり、それは、魔法であったり、封建主義といった旧体制を、エルサら類稀な指導者の善意と良識に拠って運営される事を可として肯定するという、古き良き時代のポジティブなイメージが描かれているのではあるまいか。

現代には法があり、官僚機構や政府による合理的支配があるが、中世において、現代の合理主義を超える為には、より一層領民を慈しむ名君の統治によって、人が法であるがゆえに、堅牢なシステムが構築された現代よりも、心を砕き、誠心誠意領民を慰撫せねばならないと思う。一個の人、人、人であり、祖父ルナード王への裁断が実行し得たのも、王ですら一個の人であり、それと対峙して来た多数の人々への誠意の心ゆえの英断と言えると思う。そして、海獣に乗って陸地と海上の見境もなく、広大な土地を疾走するエルサの雄姿からは、改革と粛正によって、領内に不和や敵意の芽が無くなれば、その領内における王族の正統と影響力は高まり、暗殺や謀略は絶えて、自由な振舞いが出来るようになるという事ではあるまいか。

自由とは巨大な権力と財産と享楽を得ていると思われる王族ですら、早々容易には得られない至高の宝にして、冀われるべき環境である。一作目では、異端たる魔法使いとしての葛藤、王としての覚醒を経て、ついに本作では、エルサは名君の領域へと到達し得たのである。

# by lower_highlander | 2020-01-15 18:49 | 映画

ドクター・スリープ

事件の発端は、呪われしオーバールックホテルにて、40年前に起きている。その延長線上にして、自らの霊感と特殊能力を隠して、普通の一般人として暮らすダニーは、既に中年に差し掛かっていた。40年前の亡霊たちとの怨と憎の対立に対して、まだまだ続く光と闇の戦いがあった。

特殊能力とはいえ、人間社会においては、普通の人と同じように生きており、ダニーには、少年時代にホテルで霊媒の身になった父親ジャックに追われ、九死に一生を得るも、大人になってから見える世界と、少年時代とは全く異なるが、彼の身辺に純粋で強い正義館を持った超能力少女アブラが現れる。彼女は、能力面では同類ながら、全く相容れない善と悪、光と闇に堕ちたる哀れな魂たちの犯罪を知るのであった。だから、ダニーは小説家志望でホテルの超常現象で堕落して、霊に操られたジャックとその周辺での恐怖体験が相当なトラウマになったと言う事であり、それから変転して、自らの能力「シャイニング」を秘密にして、平穏無事に生きている事、つまり、既に余生を安んじている事が、直情で純粋な少女アブラとの出逢いによって、力を持てるにして、それを行使しない悪、に堕ちてしまうのである。

つまり、ダニーには、利己的な個人主義があるが、それを責める事は、常人はいざ知らず、アブラにすら出来ない。ただ、アブラは自身の正義を眼前で貫き、それが、ダニーの心を締め付けるだけである。

街の暮らしは平穏無事であるが、シャイニングの素養のある子らは、多くが行方不明となり、その背後には恐るべき異能者集団が居り、それを率いるのは、ローズという魅惑的な魔女のような女性である。超能力を持ちながら、野心を持たず家族と共に普通に暮らすも、その闘争を避けなかったのがアブラであり、人とは愛や感情の絆によって結び付くのであって、ローズの闇のグループが異能によって徒党を組んでいるのは、如何にも悪徳の匂いがする。されど、彼らには彼らなりの仲間意識があり、ローズとクロウは良い仲のようなのだが、それも悪徳によって、自我を保つ二面性に過ぎないのではないか。

この善悪の必死の衝突と闘争というのは、不死の命を持った異能者集団に対する、人間の挑戦でもある。このアブラという勇敢な少女と、悪のグループに対して、ダニーは彼ら異能者を善も悪も統合された存在として見ており、つまり、最初は事件に巻き込まれる事を恐れる余り、属人的に彼らを把握するのではなく、自身の平穏を脅かす脅威として、中立的な立場にあったという事であろう。だから、彼がアブラに心を開くと言う事は、戦端の中心に居る人なのだから、必然的に参戦を辞さないと言う事になる。これは、彼の面目躍如という処である。

そして、一作目となる映画「シャイニング」のゆかりの人物や場所が現れ、これは非常に面白いと思う。だが、オーバールックホテルは、かつての惨劇の場にして、トラウマの源ともなったダニーの因縁深い場所であるから、そこを決戦の場に選ぶと言う事は、亡霊たちにとっては、自分達の悪巧みが破れた、敗残の地でのリターンマッチという事になる。これは中々粋な演出にして、敵味方に分かれて終われぬ戦争を続ける愚かさは、比肩するものは無いが、生命の生と死のサイクルから零れる事というのは、苦難と孤独が続くと言う事でもある。

シャイニングの最強の能力者にして、ローズら悪への武闘派でもあるアブラは、彼女らと高度な心理戦と能力戦を繰り広げるが、悪徳の妖しげな魅力と、超能力によって投影される夜空を飛んで舞ったり、相手の真髄を見極める駆け引きというのは、最早、双方の戦いでもある。選ばれし者同士でこそ、引き合い、探り合う、万華鏡のようなイリュージョンは、虚と実との境界を溶かし、一つにする。

# by lower_highlander | 2019-12-29 19:50 | 映画

決算!忠臣蔵

忠臣蔵の新解釈であり、さながら英雄として天の視点で描かれて来た物語に対して、人の視点、特に、軍資金という、お取り潰しを受けて、困窮する大石内蔵助らの苦闘を描く。されど、明るい物語であり、大石らが浅野内匠頭の生前は語られな。これは、主君の無念という死せる怨念を受けて、その厳粛な報復劇に向かうハードボイルドではなく、極めて、自由意志かつ臨機応変に渡世をしながら、報復の策を練るという、臥薪嘗胆ながら、吉良への討ち入りが世間より待望された事であり、その声援を背に受ける形で、赤穂浪士らは江戸へと集って行く。

赤穂藩のお取り潰しというのは、大変な事件であり、大石らは籠城して幕府と一戦交え、意地を見せるか、城を明け渡すかの選択を迫られるが、これは、主君の不祥事に対して厳しい極刑を科した幕府を恨む、つまり、それは天下国家において社会全体への報復に走る狂信である。だが、それを譲歩するという事は、吉良一人への報復という、お取り潰しの不名誉という自分達のヘイトではなく、主君一人の無念を晴らす事を選んだという事であり、これは、大変な浅野の忠臣らだという事が出来る。

武士というのは、統治階級として、連携する事に慎重になり、異端とか不祥事によって、統治の大義が揺らぐことを何より恐れたのではないか。そして、世間であり、武士の間同士においては、厳格な序列があり、お上に物申す事には萎縮したが、庶民階級は容赦なく、不祥事の当事者や、ここでは赤穂浪士らを嘲笑したのではないか。つまり、この状況で、元赤穂浪士で縁故があるとはいえ、用心棒となった手練れの不破が、大石らに再び仕える事を決意させたのは、カリスマがあってこそであろう。遊郭で豪遊して、吉良らを油断させるとと共に、世間の関心を買ったり、大石の豪放磊落は千両役者と言うに相応しい。

そして、不破が属していた浪人集団とは、貧困と抗争において没落して、落命もし易い人々であり、それは、御家を失った赤穂浪士らへの厳しいリアルであり、退職金の枯渇によって、乞食同然の暮らしをするやも知れぬという危惧は、差し迫った緊張感を持たせたのではないか。そして、討ち入りによる吉良の殺傷と、全員ハラ斬りというのは、対比的に現実に対する理想であり、滅びの美学によるロマンチシズムという事が出来ると思う。それは、常人からすれば、悲惨な結末だが、それを望む事は、武門としての生ける特権に対する、死せるけじめであり、世に憚った強者ほどに、結末が美しく節義にかなう事を求めるのではないか。討ち死にという悲壮な結末すら、願いになっているほどに、彼らは追い詰められていたという事であろう。

浅野の怨念という暗く翳の薄い存在も居ない事から、その威光に期待して、人や金を集めるのではなく、純粋な報復劇であり、江戸への上京というのは、その壮者達の栄誉ある行進でもある。大衆が討ち入りを望み、それを、赤穂浪士を感化するという事は、権威ある武士階級において、大衆に支持され、その側に軸足を置く赤穂浪士らが異端だという事である。それを、油断させたのは一重に、大石の役者ぶりと、赤穂浪士らの可愛げではないか。彼らの雌伏と奮起というアンビバレンスというのは、遊び惚けてろくでもない浪人であっても、心機一転して、その手に剣を持って勇躍すれば、大事を起こし得るという、人の力の強が、権威、鉄壁に守られた吉良に勝る事を示すものではあるまいか。

そして、浅野の奥方である瑤泉院という烈女が居たからこそ、死せる浅野の品格が保たれるのである。浅野のハラ斬りは無念であり、その恥辱を見せた事というのは、遺された家族や遺臣らを、世間の好奇の目に晒し、ある事ない事を噂され、また、阿呆浪士という揶揄まで生まれたのである。つまり、武士に隙あらば、大衆が批判したり、ゴシップにしたりする状況が生まれるという事で、本来、お上とは批判されるべき存在ではないのだ。その奥方が、そうした好奇の目に晒され、大きなプライドを傷付けられた赤穂浪士らの遺児らを助けた事であったり、大石に妻子が居り、新たな赤子が生命を宿し、その遺児が産声を上げる。それは、追い詰められ攻めに転じた男達に対して、御家を血筋を守る女達のそれぞれの愛と強い人生観を具現するものでは無いか。

# by lower_highlander | 2019-12-19 18:32 | 映画

ゾンビランド:ダブルタップ

ゾンビが闊歩する未来の世界。かつての政府も都市も文明も、今では、人類のほとんどがゾンビになった事から、壊滅状態にあった。荒廃した世界を疾走する4人の仲間達が目指す、アメリカの中心地とは何処の事であるのか。それによって、国家が崩壊した引き換えに、懸念としては消滅した戦争であったり、支配というものは無くなった。だが、そのディストピアから再興するのが、生き延びた人々の正義なのか、使命なのか。その答えは、ワシントンより遠方にあり、彼らが旅路を重ねて、ようやくたどり着いた、ヒッピーが管理する理想郷にあった。

RPGゲームのような世界観であり、コロンバス達のグループと、リトルロック達のグループに分かれるも、彼らは約束の地へと向かって行く。戦闘タイプとしてはコロンバス達の武装化して火器を持つ戦士タイプであるタラハシーらと旅路を共にしている事は、頼もしいの一言に尽きる。カウボーイのように、恐ろしい異形のゾンビが襲い掛かって来ても、全く物怖じしない。西部劇においては、我がと名乗りを挙げる英雄を、勝負によって決するという行為があるが、この世界は、ゾンビと言う共通の脅威を抱えたカウボーイが同士討ちをする事は無い。また、リトルロックらのグループは、ヒッピーとの二人旅であり、戦闘には全く向かない。また、コロンバス達とのマディソンも、ヒッピーであり、これは、RPGの職業にすれば、奇人だが社交的で旅に貢献するバードという処であろう。つまり、詩人である。

戦士のグループは、ゾンビに対して引く事は無いが、危険な旅である事に変わりはない。英雄如何というのは、エルビスの熱狂的なファンであり、コロンバスに一軒家を構えて自活するネバダとの出逢いにおいて、コロンバスとタラハシーにそっくりな二人のカウボーイとの出逢いにおいても試されている。つまり、いつ誰が死ぬかも分からないし、ゾンビのウイルスに感染すれば、逆に狩られる側になる。乱世と言う意味で、銃火器や武器というのは、こうした有事において自活出来る事、生命を守る為には必要悪である事が、死地での経験によって学習される。つまり、これはアメリカという国柄と国民性で無ければ成り立たない、新たな建国史であるという事である。

奇人のマディソンと、戦士のタラハシーに象徴されるものは、マディソンは非力ながら、旅を明るくする役割を担っており、また、自衛の為の武器を拒否している事から、間抜けでもあるが、友愛の象徴でもある。つまり、これはチームワークであり、マディソンのような間抜けだが愛嬌のある人々ばかりでは困り者だが、それだけで戦闘は合理化出来ないという事である。一見、浮いた不協和音であっても、緊張感で張り詰めた旅の苦難を和らげるのが、社交のプロであるバードの役割である。辛い時ほどに、必要となるメンバーと言う意味では、世界の崩壊を眼前に観ている彼らに精神は常にストレスに晒されており、間の抜けたコメントをするバードの仕事というのは、むしろ、戦士とのタッグにおいて要されるという事であろう。

そして、そのチームワークは、全土で戦う戦士達のグループに共通しており、彼らは異なる局面で戦っていても、ワンチームという共通意志があるのではないか。それを日々想っている、温めているからこそ、彼らは初対面でも戦士同士の絆を感じる事が出来るのである。

この国難において、ゾンビ狩りという危険だが大義のある戦闘を生業としている人々の正義心に対して、戦闘を放棄したヒッピーらの理想郷「バビロン」との個人主義の対比がある。だが、これは、あらゆる聖域や文明の牙城が崩れたディストピアであって、戦士達もまた、いずれ還るべき安息の約束の地を求めているのではないか。つまり、ヒッピーらの非武装無抵抗の政権というのが、この未来では肯定されており、文明の再興というのは、アメリカのような強大な国でこそ、余りにその国力が大きすぎる事から苦難な道なのである。だから、ヒッピーの都市国家というのは、そうした、人類のダウンサイズ、つまりは、自主的な衰退も、一つの選択肢であるという事である。

戦士達にとっては、自衛の戦闘を放棄して、都市国家に持ち込まれたあらゆる武器を溶かしてしまう、バビロンの運営というのは、愛国者にとっては裏切りに等しいかも知れない。だが、愛国とは時にエキセントリックな夢物語に陥りがちであり、バビロンこそが、来る未来への持続可能な世界であり、また同時に、都市国家の外界はゾンビの無数の興亡に任せて、その統治を放棄する、ということでもある。つまり、人類が外敵に対して力量の限界を認める時点で、バビロンには指導者が不在という事であるし、新型ウイルスによって、ほとんどの人類が死滅してしまった死者への弔いも報復もしない、という事でもある。これに対して、コロンバスやタラハシーらは、まだ人類が英雄たる事が出来ると、自覚はして居なくとも、戦闘の中で、その考え方を具現化している。

文明の再興か、平和の為の衰退か、というのは、重たく暗い課題でもあるが、これは、未来を託されたのは、今は守られ育てられるべく次世代だけでなく、何を残すのかをリアルタイムに問われ続ける現世代にこそ、生きた証を残すか否か、の分水嶺ではあるまいか。

# by lower_highlander | 2019-12-07 15:30 | 映画