人気ブログランキング | 話題のタグを見る

8th Round

スリー・ビルボード

その日を境に、母は復讐の為だけに生きた。

アメリカ、ミズーリ州の田舎町エビング。ある日、道路脇に立つ3枚の立て看板に、地元警察への辛辣な抗議メッセージが出現する。それは、娘を殺されたミルドレッド・ヘイズが、7ヵ月たっても一向に進展しない捜査に業を煮やして掲げたものだった。名指しされた署長のウィロビーは困惑しながらも冷静に理解を得ようとする一方、部下のディクソン巡査はミルドレッドへの怒りを露わにする。さらに署長を敬愛する町の人々も広告に憤慨し、掲載を取り止めるようミルドレッドに忠告するのだったが…。(allcinema)

ミルドレッドは、強情な女性であるが、その根源は、犯罪に巻き込まれ、死んでしまった娘に対する無上の愛があるからこそ、母ミルドレッドは、復讐の鬼と化する事が出来た。警察を相手にして、宣戦布告とも観える過激な行動を取る。それは、警察署長を名指しで、殺人事件の捜査責任を問う言葉を、街の片隅にある看板に書いた事にある。署長とは、地域の警察の代表者であり、権力を持っている、恐い存在でもある。だが、女性の強かさのゆえか、ミルドレッドは、国家権力を恐れず、報復といった事は在り得ないものと信じ、強情な態度を貫き通す。

国家とは、権威を持ち、その組織的な強大さがゆえに、後ろ盾を持たない個人は自然と畏怖を抱くものだ。だが、その権威を全く恐れず、どんな意志をも行動に移せる人間が居たら、どうであろうか。誰もがミルドレッドのように、剛胆に成れるわけではないし、成る必要もない。正義と悪とは、絶対的なものではなく、娘を殺された事に対する、同情の余地がある事だけが、ミルドレッドのあらゆる無軌道な行動を正当化している。警察官ですら、世の中には、強い者と弱い者があり、それぞれがあらゆる局面で戦い合い、大義と利害のバランスを取りながら、無秩序に共存の場を探っている事を受け入れている。

つまり、法治社会とは、法律が至上であり、その裁断によって機械的に人が罰せられ、あるいは、赦されているわけではなく、パワーバランスと共にある、という事なのだ。逆に言えば、機械的な法の裁断とは恐るべき事であり、人間にとっては、「法の支配によるディストピア」の産物という事であろう。だから、どんなに高名な教授であろうと、博士であろうと、法の執行の現場においては、世情を窺い、その公論を集約する事によって、柔軟に解釈を変えていく事が出来ねば、高度な専門知識も、化石のような硬直化した思考に陥るのである。曲学阿世という言葉もあるが、世界の中で自身の立ち位置を理解して、行動を選択していくことが出来ねば、知識という武器を持った、独裁者ともなろう。それは、賢く強いほどに、その危険は潜在するのである。

原理を守る事だけが、正義に繋がるというわけではない。それは、人間の社会や組織を守る為に存在するのであって、個人や組織の存在意義を超えた原理とは、正義ではないのだ。つまり、法律における原理とは、人間社会を監視する事から、得られる教訓や知識であるべきであり、法の人格化とは、人工知能に似た恐さがあるのだ。それは、人間の能力や善悪の評価基準を超えて、機械的に自立する恐れがあるからである。

ミルドレッドは、事件を全く進展させず、捜査能力もない警察に対して、憤怒の情をあらわにして、批判する側に回る。これは、むしろ、被害者の遺族の人権を至上とする、急進的な人間主義の物語であり、加害者への人権や弁明の権利がある事を全く無視したものと言って良い。どんな凶悪犯にも、守られるべき人権があり、そこから全く動けない、司法に対する、一個の母親の怒りである。母性とは本来、種を守る為に、戦う事をも辞さないものであって、ただ、女性の無力さによって、愛や欲望が体現されるものではない。ミルドレッドはその外見然り、剽悍な母豹のようである。

そして、パワーゲームの物語然り、人間社会とは、野生を内包しながら、共感と情愛によって動いているものだ。それは、犯罪被害者の母親として、辛辣なメッセージの看板を出して、一挙に街の人々や、メディアをも巻き込んで、同情を買ったミルドレッドが、ウィロビー署長の自殺によって、逆に、非情のクレイマーに身をやつす事に現れる。そのパワーゲームとは、シーソーのように絶妙なバランシングと共にあり、さながら野生の母豹であるミルドレッドが、その「感情社会」と徹底的にぶつかる事によって、その強情さを発揮して、再び、愛される側に回る、までは屈しない、というのは、ミルドレッドの自我の強大さと、戦う母親の強かさを示すのである。

この社会は、強きも弱きも、市民権を持ち、それを人権の根拠として、生きているが、ある時、犯罪や事件に巻き込まれる事によって、人権が忘れられる事がある。その時、どう振舞うか、誰もが、ミルドレッドのように強くなれるか、という問いがあり、毀損に対する反発の強さとは、強きと弱きによって、全く変わってくる。この物語全体の恐さとは、怒れば何をするか分からない、ミルドレッドという強大な個人の恐さなのである。

by lower_highlander | 2018-03-11 14:29 | 映画
<< リメンバー・ミー シェイプ・オブ・ウォーター >>